情報社会について
- 2014/08/21
- 23:18
どうも。
あじです。
近年、我々の生活は情報社会になりつつある。
と、言われもう何年も経つが情報社会として我々がどう生きるべきかは誰も教えてくれなかった。
かつては情報の伝達に馬を走らせ、言葉を交わしていた。
また、物の輸送に多大な時間を要し、国内の輸送ですら大変な作業であった。
今では電子化された情報はタイムラグなしに相手に伝えることができる。画像や音声付で情報をリアルタイムで入手できるのだ。
物の輸送も整備された道、交通手段によりハイスピードで行うことができる。国内だけではなく国外にもアクセスが伸び、様々な文化を取り入れることができる。
この様な状態を情報伝達の便利化と呼ぶとするならば、未来は一層明るくなるのだろう。
しかし。我々の現状は必ずしも明るいとはいえない。一部の人間は未来の自分に恐怖し希望を持つことができないのだ。
なぜか。
容易に入手できる情報は地域の特色や文化を薄め、新たな技術や知識を瞬時に広める。
欲しいものはネット通販で注文をすれば翌日には手元に届くことになる。
遠く離れた友人知人とも情報共有が行われる。
テレビを点ければ全国の情報を一目で把握することもできる。
さらにインターネットを駆使することで自分の知りたい情報を知りたいときに知りたい分だけ得ることができる。
非常に便利である一方で、地域格差が浮き彫りになり、自分と他人を比べることにより生じる摩擦、劣等感。
客観視を装った主観による評価。偏った見解。情報の錯綜。
自我を形成する以前から自分だけで処理しきれない情報を得られる社会では、自分という個人の価値が薄れてしまう。
顔も知らぬ人間が多数決で常識を決め、正しいのか判断できないままに脳に記憶される情報。
他人の収入や地位を羨望し、凝り固まった常識に自分を当てはめ、世界に絶望してしまう。
それでも変に知識を付けてしまったためにリスクを恐れ、踏み込まない。挑戦者を否定することで高みに立っているのだと勘違いしている者が非常に多い。
私自身も情報社会に埋もれ、インターネットの情報だけで賢者になっていたひとりである。
しかしながら、はじめて社会に出て現実の人間と話した時、私は非常に危機感を覚えた。
インターネットで得た知識が通用せず、私という個人が求められるのだ。
インターネットの中には「私」というものは存在しておらず、当然、個人を表現することができない。
そうして空想のなかで見下していた人間が表現する個人に圧倒されてしまうのである。
部活で活躍した。コンクールで賞をとった。生徒会で学校活動に貢献した。ボランティアで感謝された。
この経験が、インターネットの知識に勝るのが社会であった。
私は悟った。
インターネットで知識を得たつもりになり架空の世界で空想の敵を叩くよりも、現実世界で何かに必死になっている人間のほうが清らかでかっこよく見られることに。
だが、気づくのが遅すぎたのだ。
今更私が現実世界で何かをすることはできない。それに情報社会に快楽を覚え、居場所を見つけたものにとって現実世界は恐ろしく近寄りがたいのである。
だから私はこの情報社会で生きていくことにした。
便利化したものを利用し、さらなる便利を得ることにした。
妄想で他人を恐れた私だからこそ、イメージできるものがある。
脳内で世界の悪と戦っていた私だからこそ、使える技がある。
空想の異性に恋をした私だからこそ、夢を与えられる。
両親がきっと心の中で私のことを気持ち悪いと思っていても、
いつかこの気持ち悪さが世間の常識として認知されればいい。
ぎとぎとな理想を掲げる、あじでした。
あじです。
近年、我々の生活は情報社会になりつつある。
と、言われもう何年も経つが情報社会として我々がどう生きるべきかは誰も教えてくれなかった。
かつては情報の伝達に馬を走らせ、言葉を交わしていた。
また、物の輸送に多大な時間を要し、国内の輸送ですら大変な作業であった。
今では電子化された情報はタイムラグなしに相手に伝えることができる。画像や音声付で情報をリアルタイムで入手できるのだ。
物の輸送も整備された道、交通手段によりハイスピードで行うことができる。国内だけではなく国外にもアクセスが伸び、様々な文化を取り入れることができる。
この様な状態を情報伝達の便利化と呼ぶとするならば、未来は一層明るくなるのだろう。
しかし。我々の現状は必ずしも明るいとはいえない。一部の人間は未来の自分に恐怖し希望を持つことができないのだ。
なぜか。
容易に入手できる情報は地域の特色や文化を薄め、新たな技術や知識を瞬時に広める。
欲しいものはネット通販で注文をすれば翌日には手元に届くことになる。
遠く離れた友人知人とも情報共有が行われる。
テレビを点ければ全国の情報を一目で把握することもできる。
さらにインターネットを駆使することで自分の知りたい情報を知りたいときに知りたい分だけ得ることができる。
非常に便利である一方で、地域格差が浮き彫りになり、自分と他人を比べることにより生じる摩擦、劣等感。
客観視を装った主観による評価。偏った見解。情報の錯綜。
自我を形成する以前から自分だけで処理しきれない情報を得られる社会では、自分という個人の価値が薄れてしまう。
顔も知らぬ人間が多数決で常識を決め、正しいのか判断できないままに脳に記憶される情報。
他人の収入や地位を羨望し、凝り固まった常識に自分を当てはめ、世界に絶望してしまう。
それでも変に知識を付けてしまったためにリスクを恐れ、踏み込まない。挑戦者を否定することで高みに立っているのだと勘違いしている者が非常に多い。
私自身も情報社会に埋もれ、インターネットの情報だけで賢者になっていたひとりである。
しかしながら、はじめて社会に出て現実の人間と話した時、私は非常に危機感を覚えた。
インターネットで得た知識が通用せず、私という個人が求められるのだ。
インターネットの中には「私」というものは存在しておらず、当然、個人を表現することができない。
そうして空想のなかで見下していた人間が表現する個人に圧倒されてしまうのである。
部活で活躍した。コンクールで賞をとった。生徒会で学校活動に貢献した。ボランティアで感謝された。
この経験が、インターネットの知識に勝るのが社会であった。
私は悟った。
インターネットで知識を得たつもりになり架空の世界で空想の敵を叩くよりも、現実世界で何かに必死になっている人間のほうが清らかでかっこよく見られることに。
だが、気づくのが遅すぎたのだ。
今更私が現実世界で何かをすることはできない。それに情報社会に快楽を覚え、居場所を見つけたものにとって現実世界は恐ろしく近寄りがたいのである。
だから私はこの情報社会で生きていくことにした。
便利化したものを利用し、さらなる便利を得ることにした。
妄想で他人を恐れた私だからこそ、イメージできるものがある。
脳内で世界の悪と戦っていた私だからこそ、使える技がある。
空想の異性に恋をした私だからこそ、夢を与えられる。
両親がきっと心の中で私のことを気持ち悪いと思っていても、
いつかこの気持ち悪さが世間の常識として認知されればいい。
ぎとぎとな理想を掲げる、あじでした。